ゆれる

長めに喋る事〜!

ふたしかたしか

 

境界線とか確かとか気になる事。

 

高校生の時にGO!GO!7188の「ふたしかたしか」を初めて聞いて、それからずっとずっと好きなんですけど、冒頭の歌詞がとても鮮烈で焼き付いて忘れられなくてたまにぽつんと頭の中で流れ出すことがある。「わからないことって減らないもんなんだな、扉を開けたらまた次の扉があるだけ」

この後の一番のサビも。

「確かなこと、一つずつ集めてここまで来たのに前だけを見て生きるには余りに不確かなことばかり」

どうやら私は、確かや不確かという言葉に惹かれてしまうようで…。自分にまつわる物事で、これこれは確かな方がいい、逆にあれは不確かな方が好きなどとその時々によって確かと不確かのどちらに輿入れするかが変わってくるので面白いなぁと最近思っていて。

 

いつ教わったか忘れましたけど、フロイト精神分析なるもので、私たちの意識的な部分は氷山の露見してる一角だけで、その下の水中にはもの凄い量の無意識があるということ。それを聞いた時には恐怖を覚えました。だってそんな、自分が頑張って判断を下して律して整えているのは一部だけだなんて、そんなの頑張って整えているのを嘲られているみたいで。自分の中にそんな不確定な部分があるなんて得体が知れないし、無意識の部分で他人を傷つけたり迷惑をかけているかもしれないなんて、とても怖いことだと思いました。そう思って「無意識の領域の自分が怖い」という内容を二次創作の文にしたりしたんですけど…。

でも考えてみると世の中には不確かな事の方が圧倒的に多いんですよね。当たり前の事なんでしょうけれど。

私の中の現時点での確かと不確かの好みをまとめてみようと思って書いてみてます。気づいたけど私ってずっと自分の事ばっかり書いてるなぁ…笑

 

気を取り直して、

まず自分に纏わる出来事について、不確かな事というのは怖いのであまり好きではありません。私のあずかり知らぬところで私に対するアクションを企てられる事は本当に苦手で、サプライズなどされてもしてくれた相手が望んでいる反応を返せる気がしません。ですがサプライズを仕掛ける側となると、頑張って仕掛けた分何かしらリアクションを求めてしまうのが常です。手塩にかければかけるほど成果が見合わなかったときの落胆は大きいもので、何かを与えると相応の見返りを求めるのが人間の性なんでしょう。信頼できるセンスを持っている人以外からのサプライズは本当に怖いです。なるべくであれば頂くプレゼントも指定したいので我ながら可愛げがないなぁと思います。

 

次に、勝負事は不確定な方が良い。

勝負事とはあまり縁のない人生でしたが、最近私ヴァンガードを見てカードゲームの方もやるようになりまして。本当にひよっこ初心者なので語るには及ばないんですけれども、それでも勝負事に於いて私が、相手が、どこに重点を置きたいのか、どのように事を運びたいのかなどやり方はそれぞれでして、ただ、私がここで賭けをしたい!不確定だけどもワンチャンスに賭けて劇的な勝利を収めてみたい!っていうわくわくめいた気持ちが芽生えたのでびっくりです。賭博はできないけれど、不確定に対して運を以って勇敢な気持ちで勝負をかけることの楽しさを覚えました。

ヴァンガードGの主人公新導クロノくんに、トリプルクリティカルで勝利してしまう岡崎クミちゃんのような、そんなファイトができたならなぁ〜と。ヴァンガードの運要素が苦手な人も絶対居ると思うのですが、私は自分でも読めないのが大好きです。ほんと…ファイトしてくれる友達欲しい…泣

 

また、私は本を読むのが好きなのですが(毎度のこと)本はジャンルによって不確か確かの好みが変わってきます。

私の好きなジャンルの一つがSFで、これは確かな方が良い。私がSF小説に望むのは、世界観の作り込みは確か、導入の仕方は不確かなのでとてもややこしい。

舞台となる世界のことわりとか、運用や流通などの社会構造とかは確定したものとして構築して居て欲しい。でも私を物語の舞台に引き入れる時には何も知らせずゆっくり引っ張っていって欲しい、というわがままがあって、徐々に読んでいる感覚でその世界の事を手繰り寄せていきたいので説明され過ぎず、小出しのヒントを拾いながら把握していく贅沢が欲しい、なぁって。

 

その他はカテゴライズが難しいけど、普段読んでいて好きだと思うのは決まって「分かりやすくはない」本だなぁといつからか気づきました。読んですぐそのままの意で受け取ってどんどん進める文とそうでない文がある。

親切で物語に引き込まれてどんどん読み進められるのは前者なんですけれど、記憶に残っているのは圧倒的に後者で…。

 

歳をとるごとに、何か大きな動きや事柄、事象が起こって展開していくのよりも、人物の心境の変化や考えている内容の方に惹かれ出して、何か劇的な事件がなくても進んでゆく話が読んでいてとても心地よいことに気づきました。

だからこそ、「三国志」を読んでいて途中から戦績を淡々と書かれ出すともう全然興味を持てなくなってしまって。義兄弟を交わすまでの三人のやりとりや劉備の恋などはすごく面白かったんですけれど…。

 

出来事よりも心境や思考を。尚且つ「分かりやすすぎない」書き方で書かれているものを好むように最近はなっています。ちょっと確かか不確かかという点からはずれていますが…。

 

私の大好きな川上未映子さんのエッセイで、物書きは悲しいことやつらいことの詳細を書かず思わせぶり。読者からすれば何があったか分からないからもやもやするし読まされても仕方ないような気がしていた。けれど、詳細を記すこと、それを公に残す事は書く事の本質ではない。今自分の心を覆っている気持ちの上澄みを書き記す事だけが重要、その気持ちに支配されているからそれを書くことしかできないというような内容があって。

そのような事柄を省いて心境を書いてる文を読んだ時に本当に同じように思っていたので、書く事の本質や芸術としての文章の役割というのを考え直させられました。

 

あとは最近はメタ認知を頑張ろうとしていて、2月くらいから自分じゃどうにもならない感情の起伏に伴い動けなくなることがあって、やらなければいけないこと(原稿とか手続きとか)があってもずーっと布団の中にこもってたりで、自分が何故こんな心境なのか、何故やらなければいけないことを放棄しているのかを考えるようになりました。

 

他人と良く話してみたり、職場の人を観察していたら自分の性格の理解というのも進んで、なんとなく感情の理由が分かるようになってきて、普通ならば理由が分かれば解決できるんですけれど、私の性格が解決を許さないところもあって、変な感じですけどそれなら仕方ないなと割り切れるようになりました。

解決方法は判明していても当の私がそれをすることを拒んでいるならばこの不安定な心境が消えるまでなんとなく耐えるしかないな〜と。

 

そう思えるようになってからは自分との付き合い方が楽になって、やっぱり分かることは良いことだと思ってます。

とは言え無意識部分が減る訳ではなく、いつどこで知らない自分が出てくるか分からなくて、現に最近また不可解な心境になっていたりでめまぐるしいです。不可解と言いつつ本当は分かっていたりして、でもそれを分かりたくないから分からないフリをしている自分のなんと気持ち悪いことか〜〜!!!

 

自分との付き合い方がこの年になってようやく確立したのかなと思います。自分を客観的な位置に置けるようになると、人とのやり取りで相手の喧嘩腰にバチギレしつつ、私まで喧嘩で返したら炎上してしまうので一旦下手に出て向こうの反応を見よう、とか、そういう余裕が生まれて怒ってるんだけど楽しいみたいな。性格が良いとは言えないですが…笑

 

結局なんだか不確かと確かというテーマから離れてしまいましたけど、とにかく自分が何故怒ってるのか、何故悲しいのか、何がどう嬉しいのか、不調なのかの理由探しをするのが楽しいのです。

 

終わり!