ゆれる

長めに喋る事〜!

明日目覚めた時突然綺麗にならないかな

 

めちゃくちゃ久しぶりにブログ書くな。時間が過ぎていくのが早すぎて気づけばそれはいつものことなのですけど。今回は美容に関して近頃で思ったことを書いていきます。

 

美容というジャンルは冗談じゃなく奥深く追求すれば際限がない。当然人によって求める基準が異なりそれぞれの着地をしているのだろうけれども、科学の進歩と同じくして美容についても日々技術やその効果は進化し、また様々な情報がSNSによって流れては過ぎていく。思い返せば自分が学生の頃はTwitterには美容垢なるものも見かけず(もしかしたら存在はしてたのかもしれないけど)どうやって情報を得ていたのか全く分からないし記憶にもない。安野モヨコ先生の美人画報を読んでいたのは覚えてる。

情報イズパワーなので情報量が多い今の時代に生きるのはかなりメリットが多く幸せなことだと思う。その分フェイクとかいらん情報も多いけども騙されなければメリットの方が多い。私だって紫外線がヤバいってちゃんと知っていたら小学生の時の水泳も張り切って夏休みを追加練習に費やしはしなかったし、中学生の時には野外で走り回る陸上部には絶対に入らなかったろう。

過ぎたことは仕方がないとしても、こうしてアラサー辺りまでにSNSが美容情報で溢れ、その恩恵を受け取れているのは幸福なことと思う。私と妹が高校時代ほぼ同じ身長なのに丈を短く切った同じスカートをはいていても妹だけが注意を受けた理由も骨格タイプの差が原因だと今になって理解できた。(妹はストレート、私はウェーブ)

 

美容関連は本当に手間もコストもかかるので各々の希望や興味関心の度合いで折り合いをつけて付き合っていくものとなってるのかなと。

私なんて小市民でさらにオタクというライフワークを抱えているために収支バランスもソシャゲPUの具合や推しグッズ発売予定によって結構左右されるわけだけど、でもやはり美容に関連する何かに対して対価を払うことは心地よくあるのだよね。

 

今より若い時分は何よりも服!靴!アクセサリー!みたいな感じだったのに、今やスキンケア!安眠!QOL!みたいな優先順位にすっかり入れ替わっている。今の迷いは高いスキンケア用品をラインで買うかいっそのことレーザー治療で肌質改善を狙うかなど。諸事情あり貯金しなければならない状況なのに年末頃からFGOくんの私向けガチャPU、私向けイベントが立て続けに舞い込み思わず課金するなど、(それはそれで感謝してるからいいんだけども!)財布の紐の緩み具合がひどく自分でも反省せねばと思うこのごろ。

 

何が書きたいのかと言うと、そうして美容関連のあれこれをするのは楽しくもあるけども他種多様なあれこれのハードルが下がり誰でも手を伸ばせるようになった結果、世の女性の美容にかける平均点が上がってるのを感じるということ。

髪の毛、脱毛、エステ、小顔矯正、アイラッシュ(まつげ)、アートメイク(まゆげ)、ネイル、歯列矯正、美容整形etc。いやほんとに多い。この間まで誰も爪にオイルなんて塗ってなかったと思うのにハッと自分の手を見た時に、うわっ爪カピカピなってる縦筋すごい!かわいそう!って思う自分のその気づきすらマジかと思う。爪が乾燥していたからなんやと言うのや。健康な強い爪がいいのも爪に気を遣わないとネイルベットが短くなるのもなるほど分かる。分かるんだけどそんな細かい事を気にするようになったのはいつからだったろう。ネイルだけにとどまらず、そういう美容に関するいろいろな事の「気になる範囲」が広くなっているのを日々感じる。もちろん、何か手を尽くしたりケアをした結果の良い状態を経験するとそれより悪化した状態が心地が良くなくなるのは当然のことで、ケアする箇所が増えれば増えるほど気にかける箇所も気づくことも増えていく。

 

それに伴うメリットデメリットの両方があるけども、他人のことも見られるようになるメリットが大きいと個人的に思う。人が何に注力しているかがおおよそ分かるようになる。世の綺麗なものはだいたい手がかけられているので、髪の毛が綺麗とか手が綺麗とかそういう状態のための努力を思ってなんだか泣きたくなってくる。髪の毛が毛先まで潤ってるしスタイリングも上手だし髪の毛のお手入れをしっかりしてる人なんだなぁ素敵だなぁとか、綺麗なセパレートまつげで横から見ても長さも量もあってくりんと美しいなぁまつ育とまつパをしてはる人なんだろうなぁ素晴らしいなぁとか、指先にさかむけのひとつもなく手の甲もつやつやでこれぞ珠のお手手というやつでは…ネイルも品があってよろしおすなぁとか、眉の書き方やアイメイクがなんだか他の人と違っていて強めに色がのっているのに濃い印象を与えないしこれは一体どういう仕組み?この人のこれこのアイメイクこそがまさに化粧のうまさというものを体現しているのではないかとか、そういう良いなぁの着眼点がどんどん増えてきている。美容の手立てがあればある程、自分がそれを知れば知るほど、やっている人を見つけることができるようになる。気にかけていろいろやってる側としては、その努力に気付いてもらえて嬉しい時と気恥ずかしいから気づかれたくなかった時のどちらも存在するのも面白い。物によるところが大きいけども。

ただ、その、小さなあれこれでも気にして良い状態にしようとする精神やその活動やその継続がとても可憐というか、いつもそうしてくれていてありがとうねという気持ちが生まれてくる。

そうすると趣味が美容の人は本当に最強なのですが、大多数の人はそれ以外にも趣味を持っていたりそもそもそこまで美容に興味を持っていない人もいる。それでもやっぱり各々自分が許容できる範囲のコストを払ってなんらかの美容的措置、テコ入れをしているのですよね。社会的に女性である限り一定水準の美容を余儀なくされるというか、してて当たり前みたいな謎の圧力も実際あってですね、美容関連の手段が増えれば増えるほど平均的に求められる美容水準も徐々に上がっていっていると肌で感じています。脱毛をしておりまつエクもしくはまつパをしておりネイルも髪の毛も綺麗を保っている、こんな人たちがどれだけコストをかけて綺麗を保っているのかを考えてみて欲しいしそれが普通だと思わないで欲しい。誰かのためであったり他ならぬ自分のためであるかは人によって違うだろうけども、その美意識に感謝をと、思考が美容に至ったときには勝手に思っています。

 

その反面、美容が別に好きでもない人のことを思うと、平均値が上がっているぶんその人たちに強いられるボーダーとか圧みたいなものが過去より増しているのかもしれないと思うとそれもそれでなんとも言い難い気持ちになる。正直私も同人活動をしていた時の原稿中などは美容も健康も二の次で締め切りに間に合うかどうかの瀬戸際勝負をしており、無事に入稿できて仕上がった本を手に取った時には他では代替し難い達成感と喜びがあった。プロでなくとも発行物は作れるという産みの喜び。そういう、何か夢中になれるものがありそれを追う人はたとえ美容関連に手をかけていなくたって生き生きしていて素敵に見える。

ただ美容が広がり進歩してゆくごとになんとなく求められる平均値みたいなものが上がり、興味がない人でもそれなりに気を遣わなくてはならなくなるのはなんとなく悲しい、もちろん楽しさや喜びを感じながらやる場合は大いに良いのです、しかしメンタルにしろ体調にしろ環境にしろそれどころじゃない時もあり、しかもそういう時に限って「それって女としてどうなん」みたいなこと言われたりするじゃないですか。うっせぇわと。おまえが(ここは男女関係なく)求める美容ラインをこちらに押しつけてくるのはやめろと。普段美容についてあれこれするのが割と好きな私でもそう思うのに、好きでもないけどやらざるを得ないと思っている人にとってはうっせぇうっせぇうっせぇわぐらいになるのではないかと思うんですね。

 

美意識高い人がどんどん美しくなってゆくのは必然ですし、逆に美容にあまり興味ない人と差が開くのも必然です。しかして、やはり目立ったり目につくのは美しい人たちです、だからと言ってそれが平均的とは思わないようにしたい、そういう人たちを平均的女子像にする事でその人たちの美容に対する努力も軽んじてしまうことになる。YouTubeの広告での「えっ脱毛してないの〜?!」みたいなセリフの不快さたるや…。別に脱毛してなくたってええやん。何が悪いねんと言いたい。

 

そしてここまでつらつらと「他人に自分基準の美容を強要すること、平均値の女の子像を勝手に作らないこと」を書いてきましたけど、自分ごととして考えると途端に許せないことがたくさんあるのも不思議なことだなと。それは自分がある程度美容への関心があり、自分の中で他より優先すべきものと位置付けがあるからに他ならないのですけど、他者に対しては寛容でいられるのに自分だともう許されへんこともあるのですよね。

そういうののバランスがその人にとっての美容の個性であって話し合ったりしたら面白そうだなとは思うんですよね。元の体質や自分の持っているパーツの性質上特定のケアの優先度が上がることもあるだろう。その個性全般に合わせた最適解のケアを個々人が模索しつつ施していることが当たり前なんだけどなんかすごいなと漠然と思うわけです。

 

私は学生時代に左足を負傷しているので足を冷やさぬよう注意しないといけないのですが、冬は本当に寒さから筋肉や筋に力が入りピキピキとなって困ってしまう。なるべくお湯を張って湯船につかるようにしていて、半身浴しながら読書したりスピーカーで音楽流しながらマッサージしたりしているとなんかこれってめっちゃオサレというか美容に気を遣ってる人みたいではない?!と思って楽しくなってくる。いつもはお風呂のフタを半分くらいしてそのフタの上にタオルを敷いて本や水を置いているのですが、こうも風呂時間が長いのならばより映えてテンション上がるバスタイムにしたろと思いSNSでよく見るバスタブに引っ掛けるオサレな物置(本とかスマホとか飲み物が置ける)を通販サイトで見てみるも、これでは湯気が全部上がってきて本がフニャフニャになってしまうし湯船の保温のホの字もなくない?!と実用性の面で採用を断念したところ。なんか考え方がケチくさくてオモロなんですが映えと機能性てマッチしないものよなぁと。文字面では半身浴読書とかめっちゃ生活水準高そう〜な感じなんですけど現実は普通に風呂で本読んでるだけだし、なんなら本に夢中になってるあいだに飲み水もなくなり湯も冷めてヤバいことになったりする。

 

VIOの脱毛にしてもなぜこんな体のつくり的に無理めな姿勢で処理しなければならない?!と思うし絶対誰にも見せられないし、片付けが苦手な私が毎日ストレッチするためにヨガマットも万年床のように敷かれ続けているし…。美容のためのあれこれってそれ自体は別に美しいわけではないのよな。当たり前に。いや、人によってはそういう努力すら美しい場合もあるかもしれないですが、芸能人と一部の美容モンスターだけだと信じたいよ。

 

中身は10歳なのにガワがアラサーを迎えて体のあらゆる部分が急変していくのを日々感じますが、それでもこれまで施してきた、現状施している様々な手立ての結果として現状にとどまっているのだと思いたい。美容技術の進歩と美容を気にする人達の不断の努力によってイマドキの人たちは年齢よりも若く見える人が多いのでしょう。そして今のティーン世代(これってきっと死語なんだろうけど他の表現を知らない)がアラサーになる頃にはもっと進んでいるんだろう。私がまだ義務教育受けていた頃くらいにはじめて「アンチエイジング」という言葉を聞くようになり、その時はなんだか仰々しくて何かものごっついことを施して老化を止めようとしているみたいな印象を受けたし周りも「年相応に老いていくのにあらがうなんて必死すぎ」みたいな受け止め方だった気がするのに、今やむしろエイジングケアの表記は絶対あって欲しいものなんですよね。アツい手のひら返しだな…。

ま、これからもその時々の自分が金銭的に手が伸びる範囲で美容に関するあれこれをやっていくのだろうなと思うので無理なくがんばっていきまっしょいなんだよなぁ。

 

某舞台俳優のインスタ投稿で加工アプリで撮影した自分と鏡に映る自分の乖離だとか、それを自覚しているのにやめようとしないことへの自虐の気持ちが綴られていて、その気持ち自体ものすごくわかるし、考えすぎてしまう人間ほど自分を客観視して情けなく感じるものだけど、Twitterで流れてきたツイートの「写真くらい盛らせろ」っていうシンプルで力強い気持ちも本当に分かるので複雑ですわよね。加工写真と現物の変わらなさが価値基準のひとつになるのも今の時代らしい観点で面白いなぁと思う。今後またその反対として素の自分でいこうアンチ加工写メみたいな勢力も生まれそうだしワクワクですよね。SF好きゆえに好きな小説内での「肉体を捨ててバーチャル上の精神活動だけが人間の営みになった世界」では見た目が自由にオーダーできる、まさにアバターなわけですが、そうして見た目を元の自分とは全く別物にしてしまう人のことを揶揄する側もいた、みたいな妙なリアルさが面白くて、それが今の加工アプリ事情の延長線上の先の先の先の方にあるのかもしれないななんて一人で思ってワクワクしているのでした。攻殻機動隊もそうじゃん?!

 

長い上に最終的に美容に全く関係ないところまで話が及んでしまいましたが、一人でこういうとりとめのないことをぐるぐる考えているのが私なんですよね。難儀な生き物だね!とりあえずあゆみんが使ってて弦月くんもおすすめしてたランコムの美容液買いに行きたい!乙女、美容液に感動!したい。

終わり。

スッキリしたいがための心情整理

 

人間関係No wayway とはよく言ったもので、経済的に脅かされていない状態においては、気を揉むのはおおかた人間関係についてなのだよな。

 

自分一人で生きていれば発生し得ないけれど「一人で生きられそう」は「そう」であって、完全に一人で生きられるわけではない。恋愛だけにとどまらず、先輩、友達、他人とSNS、そこにはそれぞれに種類の異なるまたは同質の良さとストレスが分かれて存在していたり枠を超えて横たえていたりして。

自分一人であれこれする分に対しては自己理解がある程度あれば問題なく進めていけるのよね。他人との交流や接触が介在するだけで掴みかけていた自分像みたいなものを簡単に見失ってしまう。化学反応や物理法則の実験のように何度も条件を変えて試行錯誤しているつもりになってしまう。反応は自分側と相手側の二種類がある。人と人の関わり合いにおいて同じ条件を揃えることは不可能に近いだろうから毎回結果が変わるのは自明の理なんだけど。その毎回の試行ごとに自分側の感情の差が驚くほどあるものだから、もう単純にびっくりしてしまうんだな。相手側のことはわからないので知らん。このように人間関係のさまざまを行うことを自分の中で人間関係チャレンジと呼んでいるんですが。

 

自分の体調やメンタルの調子で左右されるのはままあるだろう。ただでも同じわたしという人間なのにぶつける人、ぶつける時期、ぶつけ方等によって自分の反応がここまで変わるということがちょっと恐ろしいんだよ。別に考えなくてもごく当たり前のことなんだけど。それこそ自明の理なんだけど。

基本的に把握厨なところがあって感情も行動も制御下に置きたい気持ちが強いので、他者と接したときの自分の反応が予想外であればあるほど自分の中の違和感が強くてその行動や感情丸ごと認めたくなくなってしまう。これまでの私はこういうことしない、とか、こういう感情を抱かない、とか。

でもぶつかる人や時期によっては本当に未知の反応はあり得るので、これまでの自分との乖離現象にものすごく苦しむ。それでいてライトに「まぁ今はそういう気分なんだからいいんとちゃう?」みたいな楽天的な自分も普通に存在しているので、未知の自分、葛藤している自分、楽天的な自分、それら全て俯瞰している自分、など幾重にも自分が生まれ、その時々で主となるのがどの自分かによってもまた…行動や…考えが…変わっていくので……とても疲れる。

 

これを繰り返しているのが最近の自分で、おそらく世に言うメンブレとは種類が違うのだろうけど、メンタルがブレイクされそうになるのでメンブレと呼ばせて欲しい…。

もっと単純に生きたいのに元々プライド高めで見栄張り完璧主義寄りな性格ゆえに情けない未熟で弱い部分はなるたけ見たくないのに、否が応でもそれらが浮き彫りになってしまうことが人間関係の出来事の中には本当に多くって。矯正できたり次に生かせる内容ならマシなんだけど、プライド高人間の私は「羞恥」への耐性が極端に低くて…自分が「羞恥」であるとみなす事は本当に認めることすらつらいのです。これは羞恥だから認めたくない!そう思って苦しんでるのを俯瞰して、またそれでダダこねてるな〜って鼻で笑いながらめちゃくちゃ虚しくなるのですが、分かっているけど分かっているのに心が拒むのが厄介なんだよ。更に俯瞰してる自分は、これまで認識してきた自分像なんて、「結局はそうであって欲しいだけ」とか「そうありたいと思ってるだけ」なのではないか?その時点で本来の自分とギャップがあるのではないか?だとしたらこうして苦しんでいる事自体が空回りすぎててあまりに滑稽ではないか?とセルフツッコミを入れ始めるんですね。それがね頻発することがイタくて超つらいんです。

 

そういう面倒くさい自分だからこそ、自らが恥と思う事を他者に見られたり気付かれることを恐れていたアルジュナに圧倒的シンパシーを感じてしまった。その部分を知って他者がどう思うかに関わらず(例え好意的に思われたとしても)、その部分を知られているという事実で私が勝手に気に病んでしまう。たにんによわみをにぎられているんだぁ…。(突然のFGOで本当にすまない)

 

一旦素直に自分が希望する事を心のままに書き出してみた結果、本当にわがままで自分本位で他者の気持ちを考えていなさすぎてそれもまた驚いた。私って良いよねと思っていたいのに、頑張って集めてきたその実感の一部が他者とのコミュニケーションによる反応で簡単に崩れてしまう…。こえーよ…。

人と関係しなければ生きていけないのに人と関係するには自分はどうにも未熟で、しかし未熟な部分を認識するのは恐ろしく、未熟な部分で他人を振り回しているかもしれない自分がまた恐ろしい。

前にも書いたけども、途中まで確かにあった気持ちや熱量がふっと消えて次の瞬間には冷淡極まりない事を考えていたりする。自分が冷めた人間であることをこれ以上なく証明されるようでその瞬間冷却現象が本当に恐ろしい。熱しやすく冷めやすい飽き性なのかもしれないけど、けどでも、私のその飽き性に付き合わされ振り回される人は少なからずいるのだろうから…。

 

気のままに他人を振り回しても咎められないような人もいるかもしれないし、仮にそうできたらストレスフリーなのかもしれないけども、私はそうやって自分の思うままに行動し切れず、他者をおざなりにする事に抵抗を感じてしまうからよりおさまりが悪いんだろうなと…。

損得勘定も強めに持っているし、自分本位で自分の目的を達成したいし考える事も冷めている。でも他者を雑に扱うには抵抗がある。それ自体は悪いことではないんだけども…。冷淡なくせに冷たくなりきれないみたいな。

 

こうして気持ちを書き出してみると、結局のところ、

①恥ずかしい(と自分が思っている)事実を認めたくない!という心の拒絶を理解していながら、メタ認知して自分でそれを面白がるしか対処法がなくてつらい(ぴぇん)

②内心比較と損得で選ぶし冷めてるし自分を優先させたいのに、他者を適当に扱う事には心が痛むし、自分が冷酷な人間であると自覚するのは怖い

この二本立てかな……。

 

もうお前一体何の話をしているんだという感じなんですけども、こうして吐き出しておかねば次に進めそうになくて、本当はどうって事ないまさに些事なんですが自分にとってはどうしようもなく大変な事なんです。直感タイプなのに行動には直結せず、脳内でぐるぐる考えすぎて行動し損じるというか…。

 

でも人間関係においてはおそらく情緒面よりも端的に素直に伝える方がきっと解決することは多いのだろうとは思うので、どこまで自分が恥をかいて、または勇気を出して本音を言うかにかかっているのかもしれないよね。人間関係こっわ。

自分のメンタルがもう少し落ち着いて目標にまっすぐ向かえるようになりますように。年齢や肉体の老いなども鑑みるとどうしてもマルチタスク化していくのでどれもがバランスよく成り立ち自己実現していきたい。

 

そんな今回の気持ちに寄り添うのは「Yeah Yeah Yeah」(ハロプロ・オールスターズ)でした。

損得ばかりが全てじゃないがポイント期限が切れたらなんかイラっとね

 

イライラするのなぜだろう しんどいのに 気にしなきゃいいだけ、でも、気になるな

 

本音を話してみたい場面でぐっと堪えたのわかってほしい… 無理かな

 

誰かの良いとこ本気で褒められる私でいたい 人間も失敗するから学んでいくよ そうだろう

本当は誰より優越感の中浸ってみたい 人間って小さい生き物なんだと思うよ それでも生きるよ 生きなきゃね

 

は〜ハロ曲って人生。

まとめたから今日からまた頑張ります。ぐちゃってるしこんなもう輪郭かっすかすにかすめる程度の言い方で具体的なことがらは説明していなくてごめんなさい。それこそ私判定で恥に該当するようなことだから結局誰にも言えないので、こんなに遠回しに書いて消化するしかないなんて事になっているんだよね。読まされた人本当に実りのない内容ですまない。

 

なんかもっと楽しい事も書きたいのにね〜!次は何か良いこと書けるようにしたいです。

終わり

ままならないこと

 

本を読むのが好き過ぎる。

 

わたしの中では本(小説)は【ストーリーが面白い部門】と【文章が美しい部門】に分かれている。ただそのまんま大衆文学なのか純文学なのかというだけだけども、あまりそういうふうに呼びたくなくてなんとなくふんわりと頭の中で分けている。どっちがどうと言うよりどっちも好き。

そういう分類があるのがもうすでに嬉しい。寝食忘れストーリーに没頭したい気持ちのときと、美しくも難しい文章群を何往復もたゆたっていたい気持ちのときそれぞれにぴったりな本があることの幸せ。選べる幸せ。

 

近頃は前者のストーリーが面白い部門の本(SF小説)を続けて読んでいたので久しぶりに後者を読むとすごい。前者を読んでいるときとは異なる幸福感に満たされる。一文を消化するために必要なエネルギーがかなり多い。全然進めない。ようやく短編をひとつ読み終わってもまた最初から読み始めている。美しく難解な文章を行きつ戻りつし続けることの幸福感は比類ない。

 

本を読むのが好きとか純文学が好きとか、人に伝えるときは分かりやすくそのように言うが別に研究しているわけではなく、読むことを楽しんでいるだけなので言ってしまえば別に内容を理解しきれていなくてもいい。著者の思惑や複雑な例えに何ひとつ気付けなくてもいい。目で文章を追って飲み込んで心地よければそれでいい。

そういう感じで、行きつ戻りつ、読み終える前にまた初めから、読み終えてからもまた初めから、を何度もやるわけで、当然一冊を読み終えるのにかなり時間がかかる。なんなら文章が良すぎて読み終わる前に最初に戻るを繰り返しすぎて結局読み終えてない本もある。日常の煩雑ないらんことに邪魔されずにまるっと全部満足するまで往復しながら読み切りたいという謎の欲が生まれてしまい、雑事に中断されるのがもったいなくて長期間の休みがなければ決行する気にならず未読のままになっている。コスパが良いどころの話ではない。

 

私が謎なのが、読書好きの人はなぜかだいたい本を読むのがはやいということ。よく言うじゃないですか、今年の芥川賞受賞作はどうだったみたいな、毎年あるのをちゃんとそのシーズン中にしっかりと読んでいる人。いやなんでそんなすばやいのですかと、今ホットな話題の本をいつもすでに読み終わっているのですかと、聞きたい。

ストーリーが面白い部門の本ならわかる。ストーリーを追わせることが狙いなのだから。しかし純文学の本を素早く読めるのは個人的にはちょっとよくわからない。読書好きな人と会話をすると必ず「好きな作家」の話題になるが、私の場合は全ての著作を読めているような「好きな作家」は一人もいない。

私が挙げた「好きな作家」の本を、好きではなくとも私より数多く読んでいる読書好きはもちろんたくさんいる。この人が好きなんだ、これは読んだ?じゃあこっちは?初期の作品は?みたいに矢継ぎ早に聞かれても、私が読み切っているのはたったの三冊とかがざらにあって、そういうときにすごく困ってしまう。読んでいる数は少ないが好きなことに変わりはなくて、でも全てを読もうという努力はしていなくて、でも好きなんですという。

特に文章が美しい方の本は一冊読むだけでも何往復もしているために好きかどうかがきっぱりと分かり、一冊読めばもう好き作家認定ができてしまう。なのに、一冊読むのに時間がかかりすぎるために読んだ作品数は年に一、二冊程の遅々とした増え方になってしまう。その間にストーリーが面白い本を読みたくなる時もあるし、別の好き作家を読みたくなるときもあるし、なんなら過去に読んだ本を再読したいときもある。(しかもこちとら読書だけが趣味なわけではなく、年中忙しいオタクというライフワークもやっている。)

読んできた冊数は確かに大切なんだけども、しかしそれだけでは決してなくて、それも頭では理解はしているんだけど、「たくさんの本を読んでいる人こそが読書好き」みたいなやつからなかなか抜けられない。

思えば小学生の頃からずっとそうで、「年間で読んだ本の冊数」で贈られる彰があったのだけど、何ヶ月もかけてモモを読んでいた私は表彰されたことはなかったし、登壇するのはだいたい怪傑ゾロリや絵本をめちゃくちゃ読んでいた子なのだった。

 

いや、話が逸れたけども元々は本を読むのが速い人に難癖つけたいわけではなく(表彰の部分は難癖です)、読むのが速いのはそれはなんて素敵なことだろうと思う。積読を積みすぎなうえに読みたい本はマジでごまんとある、このままでは一生かけても読み切れる気がしてこない。私とてはやく読めるのであれば読みたい。次々続々と軽快に積読を片付けていきたい。でも行きつ戻りつする読み方をやめられないし、それが楽しくてやってるのだからどうにもままならない。本を読むのは大好きで楽しいのに、私の楽しい読み方はどうにものんびりすぎて、どんどんと読みたい新しい本が出てきてしまうので焦る。さらに困るのは、好きな作家は増えるということ。お、追いきれねえ〜!

 

どうしようもないことなのだけど、これは悩みに該当するのかな、嬉しい悩みかな、誰にも話すことができないので書いて発散したかった。あと冊数は読めてないけど本当に好きな作家は好きだし本を読むのも好きだよと、私は言いたい。限られた人生で読みたい本をどれだけ読めるのかなと考えていつも悲しくなってしまう。

こういうとき、つばきファクトリーの「意識高い乙女のジレンマ」がぴったりなんですわ。一人は映画へ一人は図書館へ。一度は溺れたい一度は飛びたちたい。やっぱり大切なことはハロプロが教えてくれるんだ。

 

終わり

まるで一緒に生きているみたいに

 

読書についてはこれまでもいくつか記事を書いてきましたが、読んできた中でのお気に入りを挙げたりその本の内容や感想がメインでした。一旦小学生から大学生までのものをまとめ終わり、社会人になってからは途中からインスタの方で読了とともに簡単に感想を残しているので今回は好きな作家の遷移についてまとめます。遷移というより広がりが正しいな、結局通ってきた全員を今でも好きなので。

以前にツイキャスでものすごい早口で喋ったことがあったのですが、私は喋るのが本当に下手くそでお話して伝える場合はたいてい伝えたいことの三分の一も伝わらないです。ゆえに、今回はブログで文字にして残そうとしております。そしてこの記事は随時更新されると思われます。今後も私の読書は続くので何が起こるかわかりません(警戒心) 繋がりと広がりが続く限りは記していきたいです。

以下は見やすさ重視で端的に時系列で書いていきます。分かりやすく作家ごとに色分けします。(ウルトラスーパー敬称略です)

 

■高校生時代

・『海に落とした名前』多和田葉子

図書館で表紙の雰囲気で選んで借りるが、難しくて全く理解ができない。悔しいので分からないが読み切る。

 

・『乳と卵』川上未映子(以下同)

その年の芥川賞受賞作。同じクラスの友人から借りる。私の方がハマる。

・『そら頭はでかいです、世界がすこんと入ります』

エッセイ。高校三年生の受験時に毎日読む。めちゃくちゃ感銘を受ける。小学生の頃の偉人を調べる課題でゴッホを調べていたので「わたしはゴッホに言うたりたい」がお気に入り。実はこのエッセイ内ですでに多和田葉子の『聖女伝説』が出てきているが、図書館で借りて難しかった本が多和田葉子著作というのを忘れていて気づいていない。またこのエッセイでサリンジャーフラニーとゾーイー』を関西弁にしてみる話が登場。『フラニーとゾーイー』購入。

・『わたくし率イン歯ー、または世界』

 

■大学生時代

まだまだ川上未映子ブームでいろいろ読む。

・『六つの星々』川上未映子

対話集。多和田葉子との対話がある。この名前絶対どこかで見たことあると調べまくる。そこでようやく高校時代に図書館で借りた難しかった本が多和田葉子著作であると知る。

 

・『フラニーとゾーイーサリンジャー

前述、川上未映子エッセイに出てきたので購入して積んでいたものを読む。めちゃくちゃ良い。好き。その後グラース家の話にて『ナインストーリーズ』も読むが『フラニーとゾーイー』の方が圧倒的に好き。余談、翻訳の凄さを初めて感じ、また原文で読めないことの悔しさに打ちひしがれる。

 

・『飛魂』多和田葉子

高校時代に理解できず忘れ、『六つの星々』でまた巡り合った作家、いざ。良すぎる。幸福。良すぎて途中で冒頭に戻るループを繰り返しなぜか今でも未読のまま。(?) 講談社文芸文庫とファーストコンタクト。これ文庫の値段?その後も多和田葉子著作は講談社文芸文庫が多くそこそこしんどい。

 

■社会人以降

大学生〜今にかけてその後川上未映子多和田葉子の著作はいくつかずつ読んでいる。特に多和田葉子は難しいため、読むのにかなり時間がかかり読了数は少ない。

 

・『燃焼のための習作』堀江敏幸

書店で文庫化された新作として置かれていたのを表紙買い。表紙のデザインが本当に素晴らしい。内容も良かった。この話の前作があると知るが何故か書店にはまったく置いていない。のちにアマゾンで購入。

 

・『河岸忘日抄』堀江敏幸

アマゾンで購入。良すぎる。良すぎて泣いた。堀江敏幸好き作家認定待った無し。

 

・『愛の生活・森のメリュジーヌ金井美恵子

当時の彼氏(超読書好き)に、川上未映子多和田葉子が好きなら多分この人も好きとすすめられる。講談社文芸文庫地味にお財布がつらい。購入のみ、しばらく積む。

 

・『桜の庭・三人姉妹』チェーホフ

戯曲ブーム。『ロミオとジュリエット』が面白かったので次はロシアに挑戦や!の意気込み。『かもめ』と迷ってこちらに。戯曲やっぱりすごいな。

 

・『フラニーとゾーイーサリンジャー

再読。親しい友人ももこさんが私の好きな本ということで読んでくれてると報告が入り、舞い上がって自分も再読しちゃう。やっぱり好き。初めて読んだ時は全く分からなかったワードが分かる…分かるぞ…!四弘誓願、これは殺生院キアラさんの宝具ボイス「衆生無辺誓願度」。カリ・ユガまで出てくる。なるほどFGOじゃねーの。そしてチェーホフ『桜の庭』も作中で登場。え、それ私読んでる…読んでるー!初めて読んだのが大学時代にて、『桜の庭』が出てきたことなどもちろん覚えておらず、再読するまでに勝手に読んでいたことに驚きつつも爆沸きする。これってもう運命では?(?)

 

・『穴あきエフの初恋祭り』多和田葉子

書店で見かける。多分その時お金に余裕がなく未購入。いま買わなきゃ…。その際、後ろの方の他の本の紹介として金井美恵子堀江敏幸の著作が!金井美恵子は人から勧められて知り、堀江敏幸は表紙買いした本から好きになった、そんな二人がピンポイントに紹介されていて書店で一人で静かに爆沸きする。若干のこじつけ感あるが…沸いたからええんや。

 

・『愛の生活・森のメリュジーヌ金井美恵子

前述済。上記のアツい展開があったので積んでいたものを読む。めちゃくちゃ良い。エッセイも書いてらっしゃるとのことで、それも絶対に読むことをこころに決める。

 

・『皆勤の徒』酉島伝法

なんとなく久しぶりにSFが読みたい気分。実はツイッターで新作の『宿借りの星』が話題になっておりそちらが気になったが、前作の『皆勤の徒』が2010年代ベストSF第1位という輝かしさなので共に購入しまずはこちらからと読む。面白い。解説部分にて、著者酉島伝法さんがSF以外で必ず読んでいる作家が多和田葉子と記載あり。ビビる。こんな…ゴリゴリのSF小説多和田葉子の名前を見ると誰が思う?

 

 

ひとまずここまでが最新の流れ!(2020年5月)

それぞれの間に別の本が何冊もはさまっているのでここにまとめた印象よりはもっと間があいてぽつぽつと現れる感じです。(間で読んでいる本はブクログにログとして記録してます。比較的最近読んだ本は写真と感想をインスタに。) 忘れた頃にまた繋がりが現れて毎回驚いてしまいます。

まぁ…川上未映子多和田葉子金井美恵子の流れはあり得るとして、別の方面から自然と好きになってる堀江敏幸のルートへのドッキングと、まさかの酉島伝法からの多和田葉子への矢印の結び方があまりにトリッキーでは?と思います、個人的に。でもこれ以上作家が増えたらもう名前につける色がなくなってしまいます、どうしよう。

 

多和田葉子さんて著作は本当に素晴らしいけれども、一般的にはそんなに広く知れ渡っていて超有名作家!!!みたいな方ではないし、本好きの元彼にも「多和田葉子好きなんて珍しい」って最初に言われたのでそんなに頻繁に名前を見るとは思わないじゃないですか。好きと言いつつ著作は積みまくりで読めてないのですが…。読むのが遅い自分が憎い。

 

『皆勤の徒』から多和田葉子に戻ってくるとは思わなかったので、『皆勤の徒』の二周目を終えた後は一旦SF熱そのままに話題の劉慈欣『三体』を読もうと思っていますが、その後は絶対積んでる多和田葉子著作のどれかを読みたいと思います。

今後もどの方面から繋がり、どの方面へ広がっていくのか全く予想がつかず油断もできないので楽しく頑張って読書していきたいです。

 

これは自分の体験でのことなのですが、こういうことって読書を趣味としていれば頻繁に起こり得ることなんでしょうか。果たして。周りに程よい読書好きがあまりおらず検証がまったくできないのです。(元彼はめちゃくちゃ読んでいる人なので参考になりません) 偶然なのか必然なのか、それとも小説の界隈的なものなのか。そうだったとしても最後の酉島伝法からは嘘でしょでしかないんですよね…。びっくりだよ。やはり私と同じようなそこそこ読書好きなお友達が欲しいと思う今日この頃です。本の話してくれる人常時大募集しております。

 

あと繋がってはいないけれど、中学生の頃からずーっと長野まゆみさんが好き。円城塔さんも好き。あとSFに興味を持つようになったのは中学生の頃むさぼり読んだ冲方丁さんの影響です。今後、積読には劉慈欣、テッド・チャンが控えているし、川上未映子円城塔がおすすめしているルシア・ベルリン作品集『掃除婦のための手引書』(岸本佐知子訳)だってちゃんと買ったのだから。川上未映子のムックにまた多和田葉子との対談だってある。どうしたって時間が足りないよう。本が世界になければ!数多の名著を生涯で読みきれないと嘆くこともない!ほんまにそれな。泣いてしまう。

 

最後の方は様子がおかしくなってしまいましたが、現在の私の好みの形成を辿るとそんな感じそんな感じ、今の私はそんな感じ、すーいもあまーいもしっかりちゃっかり知った気になっていい感じ。(「夢をのぞいたら」良曲です!)

おわり!

 

最近のべつにどうということはないこと

 

凄く久しぶりにブログを書いてる気がする。この空白の期間は割と活力に満ちていたので文字にして整理する必要もなかったのかもしれない。まぁツイ厨ゆえ毎日ツイッターでよしなしごとを呟いているから日々のことはそれなりに吐き出しているのだけど。

 

新型コロナ流行の影響で家にいることがかなり増え引きこもりの私は大歓喜。日がな本を読んでソシャゲしてかぴかぴ。こういう日々、学生の頃の長期休みに凄く似ている。小学生〜高校生の間の長期休みは本当に良かった。昼まで眠り本を読むかゲームをして過ごしたまに友達と遊ぶみたいな。一人暮らしでそれができる充実感ったらない。家族にも邪魔をされず集中力が続く間本を読み続けられる。

そう考えると子どもの頃から全然変わっておらず、ただ読む本が変わったくらいではないかと気がついてアラサーにして震えている。成長した点と言えば精神がタフになり図太さを手に入れたことや多少散らかし癖が改善されたことかな、それだけかな。ちょっと悲しい。

 

人間をやる上で何を重視するかが人によって違うので周りの人が重視していることを聞くのがわりと好きなんだけども、特に潔い人たちが本当に好きで。敵わないなと思ってしまったらその人のことをもう本当にリスペクトを持って好きになってしまう。例をあげてみても、我が妹の美容とお金に関する執着と努力、後輩の性的なことに関する探究心、友人のまさに「SNS映えする人生」を地で行くところ、同期やインターネット友達の推しに対する圧倒的な熱量と課金額など。彼女らの話を聞いていると胸のすく思いがする。

思えば「極振り」に憧れつつ全く極振れない自分なのでこれは仕方がない。

何をまとめようとしていたのか分からなくなってきたな。とにかくそういう「極振り」に焦がれつつ中途半端に停滞している自分の人生に喝を入れようと一大決心をしたのだけども、それが今回の新型コロナ君によって予定通り進まなさそうな見通しでモチベーションが保てなくなってきているので頑張れなくても自己肯定したーい!というわけで最近あった良いことを書いてみる。

 

・読んだ本が面白かった。

これはインスタの読書記録アカウントにも書いたけども、酉島伝法さんの著作「皆勤の徒」を読んだ。感想はインスタの方で書いてるのでここでは書かないけども、解説にて著者へのインタビュー内容が一部掲載されており、そこで気になる、リスペクトしている作家についてという質問で酉島伝法さんがチェックしているSF作家がつらつらと並べられる中、(SF読みではないから円城塔以外全員分からんかった)「SF以外で必ず読んでいるのは多和田葉子です。」と答えていて…衝撃。

私の読書歴というか好きな作家ってかなり繋がっていて、川上未映子サリンジャー多和田葉子堀江敏幸金井美恵子みたいな感じで推移しており。詳しくは過去にキャスで早口で話したこともあるが、わりと意図せず偶然このように流れて来ているところがあって、でもまさかSF読みたい〜な気分で「2010年代ベストSF 第一位」と評されている「皆勤の徒」を読んで多和田葉子の名前を見るとは思わなかった。もうちょっと怖いレベルになってきてる。

 

・筋トレとラジオ体操が続いている

毎日ツイッターで杜野凛世のセリフとともに筋トレしました報告しているけれども、気分と体調によってサボる日もありつつひとまず一ヶ月ほどは継続している。えらい。まだ目に見える変化はない。こう見えても小中学生時代はスポーツ少女でもあったため筋肉が全くないということはない。夏まで継続していきたい。

過去に自分比で太ったこともあり、太らない体質ではないと思うのだけど、基本的に食への興味と執着がないからこそ食事面の制限は無理なので運動する方向で頑張るしかない。体型の管理はこれまではほぼ問題なくできいるが、言うてアラサーなので今後はわからない。ていうか最近自分で触っても至る所の感触が柔らかくふかふかになってきていたのでわりと危ない。背中に肉が付くのを一番避けたいので背筋が重要だなと個人的に思ってる…。下半身は加齢とともに見せる事も減るだろうからやはり上半身よな。

 

・かおりものとは

勝田里奈ちゃんが新しくアップしたYouTubeの動画で「おうち時間をどのように過ごしているか」を紹介してくれていたのだけど、その中でおうちでリラックスしたり季節を感じるためにルームフレグランスや香水を使っているとのことだった。私は香水というものに興味関心がないので普段はほぼつけないし、もらったものを使うことが多いけれど、ひとつだけ好きな香りがあってそれがボディショップのフィジアンウォーターロータスというやつ。動画を見た後思い出したようにその香りの香水をシュてしたら部屋着なんだけどもなんかとても良い気分になった。

かおりもの、あまり興味がなかったけどもあなどれないなと。りなぷーが紹介していたものも買ってみようと思う。

 

・睡眠時間が多い

出勤日数が減っている分、出勤した日の仕事がハードになっているのだけど、頭の疲労は眠ると普通に回復するのでたくさん寝ている。眠ることのなんと幸せなことか。ソファで本を読みながら寝落ちし、また起きて本を読み読み寝落ちする。ぐうたら過ごしているという罪悪感が多少生まれるが、睡眠時間が長いということは体も健康になり免疫力も上がるとポジティブに捉えることとする。

どちらかといえば向上心が高い方なのでたまに自堕落な自分に自己嫌悪するのだけど、こうも読書と寝落ちの日々が幸福なのだったらそれだけで肯定してくれる人を探し、そういった環境に甘えて自己鍛錬なんてやめてしまいてぇという欲が生まれてきて困るよね。

 

・洋服について

今は先程挙げた「皆勤の徒」を二周目しているところなのだけど、ハードSFのはしやすめとして推し作家の一人、川上未映子さんの「おめかしの引力」を読んでみている。コロナ渦で外出しなくなりめかしこむことを久しくしていないので余計に。

昔に比べて洋服への関心がかなり薄まっていることに気づく。過去はゴリゴリの可愛らしいものを好んでいてロリータも着ていたことがあったくらいなんだけれど、最近はヘルシーでシンプルなものが好ましく思う。自己判断でしかないがおそらく骨格ウェーブなので女性らしい服装も着てみたいではある。洋服を揃えるにも入れ替えするにも先立つものが必要なわけで、今は一大決心のためにひたすらに貯蓄を進めなければならないわけで、どうにも散財できない状況。人生において優先順位は最重要項目と妹も言っていたので洋服を入れ替えるかどうかはまだ先延ばしとする。我慢ができてえらいね。

 

そんなところ。やっぱり本を読む時間と寝る時間がたくさんあると幸福度合いががつんと上がる。オタクなことはツイッターで喋りまくっているから省いたし、本当はもっとまとめたいことがあったのだけども恥じらいが勝ちすんでのところで書くのをやめた。心に秘めたる本当の私がどんな事を考えているかを誰かに見せられるときが来るのだろうか、そう思えば思うほどにアルジュナの幕間の物語を思い出してしまう。最後は結局そういうことになってしまったし、別にこうして書き出すほどのことでもないものばかりで申し訳ない。

 

引きこもりなんだけれども一丁前に、コロナがおさまったら行きたいところがいくつかあって、今のところ一番は植物園。私は切り花よりも地面から生えている花が好きで最近は咲くやこの花館のツイッターを日々チェックしているところ。植物の中の空気とにおいをおもいっきりスハスハしたいな〜!

皆さまはいかがお過ごしでしょうかね。f:id:kihayame162:20200512230950j:image

そういうこともあるだろうよ

 

最近「人間の容姿」の捉え方がなんだかよく分からなくなってきてしまった。当たり前のようにあるルッキズムが怖い。

 

主観で申し訳ないけれど両親が容姿が良く社交的でかつナルシストな人たちだった。娘の私が二十代後半になる今でも、両親ともに人から容姿を褒められる事が多い。そんな親のもとで自然と容姿について褒められて育ち、その一方でずっとルッキズム的考え方も注入され続けてきた。自分たちの容姿、身なりに厳しい人たちであり、他人のそれらにも同じく厳しい人たちなのだった。「私ちゃんが可愛くうまれたのはパパがかっこよくてママが綺麗だったから。良かったね」と言われ続けてきたし、今でも言われる。

 

そんな環境にずっと何も感じず生きてきたけども最近はなんだか容姿に関する全てのことが怖くなってきている。

まず一つ目が、自分自身がそうやって褒められてきた自分の容姿について他人に評されるほどに良いと思っていないのでその温度差がつらい。気に入らないところや整形できるならしたいところもたくさんある。しないと無理、という程でもないし金銭的に他に優先すべきものがあるので施さないだけという状況。なので化粧や格好、髪型でカバーする訳だけど、身なりに厳しい家庭で育っているのでそういう外見ブーストを頑張ることは呼吸と同じで全く苦ではないのがまだ良かった。完璧に気に入ってるわけではない容姿にバフを盛って「まぁかわいいか、こんなもんかな…」くらいの気持ちで生きている。

 

二つ目が、正当な努力が軽んじられることがある点。例として挙げると小学生時代、私の成績がオール5だった時に「それは私ちゃんが可愛いくて先生に気に入られているから」という冗談を同級生の母親に言われたこと。冗談だとしても衝撃的すぎて今でもずっと覚えている。

 

少し似ているが三つ目、容姿によって何かが免除されている点。

成長してバイトを始めた際には後輩から「私さんは可愛いから皿を割ってもそんなに怒られない」と言われ、店長からは「お前の顔が可愛くなければこれまでのミスは許してない」と笑いながら言われる。これにはマジでどっちも泣いた。

 

続いて四つ目、容姿こそが私の一番と取り柄として言われる点。

これもバイト時代に言われたこと「この子は目が大きい事だけが取り柄で…(仕事はできない)」、社会人になってから言われたこと「もしお前が店頭で物を売っていたら俺はそりゃ喜んで買うけど、(この仕事は)そうじゃないんだからもっと頑張れ」など。うるせぇ黙れ。

 

これらが全部ミックスされると容姿が良くなければ他人に選ばれなかったという事実にぶち当たってそれがめちゃくちゃに怖い。

絶対的に見た目を人に好かれる事が多すぎて、自分の中身は他人に好かれる自信が持てない。好きと言われた時にどこが?と質問すると大概一番に「見た目」と返ってくる。一つ目に戻るがそこまで褒められる程自分で良いとは思ってないのでまずちょっとつらい。続くのが、「でも見た目が可愛いだけじゃダメ」で、見た目で判定されて通過できた後にも査定がある。当たり前の事なのにそれがめちゃくちゃ怖い。自分のことを棚に上げて他人を見た目から査定してるのも怖い。さらに三つ目に戻ると「私ちゃんみたいに可愛い子が言うわがままは可愛いけど、不細工な子に同じこと言われたら、は?ってなる」という考え。さらっと当たり前のようにそれを言われ、お前は見た目が可愛いからわがままが許されているんだという優遇と免除を「愛情」として突きつけられると本当に悲しくなってくる。

この人は私がこの容姿でなければ私を選ばないし許さないし愛情を持たないのだろうという事実がめっちゃつらい。この人はこんなに優しいけれど、相手の見た目によっては「は?」という冷たい対応をしている時もあるのだという冷淡さが怖い。付け入る隙がないというか。 

そこまでいろいろな事に大きく作用する容姿という要素が怖すぎる。人は見た目が9割との事。たしかにそうなんだろうし、見た目で判断をしない人もきっとたくさん居るんだろうけれど。

 

そして、これだけ怖い怖いと言っておきながら私自身も他人に対してこれまで挙げてきた、同じような事を無自覚にしていたり言っていたりするのだろうという事実が何より一番怖い。ルッキズムが怖いのに、どうやって抜け出せばいいのか分からない。そんな最近。